みなさん、こんにちは。
日本の大学全部行った男、山内太地です。
女子大創立者の壮絶エピソード3つという話をしたいと思います。
沢山の私立大学は、創立者や創設者と呼ばれる、
その大学を創った先生や立派な方がいらっしゃいます。
日本中の大学を見学しながら、
その大学の創立者がどのような人生だったのかを調べると、
壮絶な人生の人が数多くいます。
皆さん、福沢諭吉や大隈重信は知っていると思いますが、
それ以外にも全国的には無名であっても素晴らしい先生がいます。
特に女子大の創立者の中にエピソードが興味深い先生が
3名いますので、紹介したいと思います。
1人目は日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵先生です。
この方の記念館や大学の中を見学していたら、驚きのエピソードを発見しました。
なんと、ベッドに横たわって学生達の前で講演会をやっているのです。
明らかにもう深刻な状況なのです。
それは、担架型安楽椅子という名前なのですが、ほぼベッドです。
ベッドに乗って講演をやるのですが、
この講演を、告別講演と呼ぶのです。
そう、もう死の床なのです。
病にかかり、自分はそろそろ最期を迎えるという時に、
どうしても最後まで教育者として学生の前で話したいということで、
告別講演という人生最後の講演として、学生に向けて授業を行うエピソードがありました。
未だにこの告別講演というのは、
日本女子大学にとって大変重要な行事ということで、
今でもその日には先生方が講演をしているそうです。
ということで、日本女子大学の創立者は
亡くなる寸前まで講演をしたというエピソードでした。
2人目は柴田学園大学の創立者、柴田やす先生です。
全国的には無名の先生です。
現在の柴田学園大学、以前は東北女子大学という名前で、
その前は東北女子短期大学という名前でした。
短大から始まり、女子大になり、それから男女共学になり、
柴田学園大学に変更されました。
柴田やす先生は明治14年生まれで、
大正時代に青森県でお裁縫の学校を創り、
これが大学に発展していきます。
裁縫の学校が着々と発展していき、大学になりましたが、
大学になったのは戦後です。
戦争も乗り越えて、昭和25年(1950年)の5月に
東北女子短期大学という短大ができました。
初代学長になった、その創立者が開学式で、
“いよいよ短大ができました。これからはじめます”と
開学式の壇上で式辞を読んでいる最中に倒れて亡くなりました。
心臓麻痺だそうです。
享年70歳でした。
ただその後も後継者が続いて、立派な大学となって青森県弘前市に置かれています。
柴田やす先生という立派な先生がいらっしゃったということです。
3人目は徳島文理大学の創立者、村崎サイ先生です。
徳島県の私立大学です。
この方は幕末の元治元年、香川県小豆島生まれで、
明治時代になってから初めての女性教員ということで、大変活躍をします。
教員として活躍したあとは、徳島に裁縫学校を創りました。
女子大は、最初は裁縫学校のところが多いです。
裁縫学校が順調に発展して、女子大になりますが、
昭和20年、7月4日徳島空襲により、校舎とともに殉職ということです。
空襲で亡くなってしまったのです。
しかし、そのあとは子孫の方が学校を継いで、
現在は徳島文理大学という大きく立派な大学に発展しています。
この創立者、村崎サイさんの名前の付いたホールや立派な建物があります。
女子大を創った女性の創立者は、他にも数多くいますが、
特にこの2人の女性の創立者は、今で言えばベンチャー起業家のようなもので、
相当なやり手だと思います。
今より女性の権利が低い時代に、自分で女子大を創り、
学生を集めて社会に送り出していたのです。
こういう大学の創立者には、面白いエピソードがありますので、
皆さんも興味があったら調べてみてください。<
という訳で、女子大創立者の壮絶エピソードでした。
ありがとうございました。
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